後編
2009年3月18日~3月25日
上を向いて歩こう、から気持ちをだいぶ取り戻し(笑)、
アールブルックスとのレコーディングはとても楽しくクリエイティヴなものになった。

ヨウイチさんの自宅スタジオからの眺めもとても良く、
郊外ならではな鳥の囀りが聞こえてくる、それも含めて環境音として入れれる素晴らしい環境だった。


慣らしも兼ね弾いてるだけで癒される。。
エリーゼのために
もパンだと可愛らしい

Bunri 収録時


その当時はまだまだ青二才という感じだった息子のEarl Brooks Jrも。
今は前線にいるパンプレイヤーになったらしい。

LUNAR 収録時
ほぼ一聴して、自分のアレンジを考え、インプロで合わせていく。
ヨウイチさん曰く、ブルックス氏は譜面は読めないらしい。
つまり、理論ではなく、直感だけで、ここまで高度な音楽に仕立て上げれるのだ。
逆に理論から入った音はここまでハートに届かないのかもしれない。
バルコニーでも録音して敢えて、鳥の囀りも入れようとなった。
LANDING 収録時
まさに感動的なレコーディングだった。
そしてトリニダードの人口の40%を占める
(40%はアフリカ系、19%が中国系、1%がヨーロッパ系)
インド人コミュニーティーにヨウイチさんに連れて行ってもらい、
大学教授でマイルスデイビスなどJAZZも好きで、ちょっとフュージョンみたいなことをやってるムンガル氏とも邂逅。


彼もサウンドを気に入り、インプロでシタールを演奏してもらった。
それはREBIRTHという曲に収録されている。
約1週間の割には相当な収穫を持ち帰り、バタバタでKNDと空港までのタクシーに乗り込むと、
なんだかカッコいい音がステレオから聞こえてくるのでドライバーの兄ちゃんに音量上げてくれと言うとニヤっとして
激烈爆音(笑)!
自慢のサウンドシステムでかかっていたのはその後ヨーロッパのレーベルからもリリースされたレコードも買えたこの音!

強烈!
トリニダードすごいな!
そして改めて奴隷として丸裸で連れてこられてもちゃんとアフリカンリズムは体に染み付き、
楽器は変われど、その魂は確実に内包してるのは間違いない!
って興奮してNew York経由で帰国!
(旧友TAKAYA NAGASEとも遊べたり!)
そしてその録音された音源を基に京都でSOFTとなおレコーディング!

そして元SOFTのメンバーであったYOUNG-BOというマルチな才能を持つミュージシャン、プロデューサーの参加もより、
高度なアンサンブルを加えられることになったのも影響力は大きい。


MIXエンジニアにも同行したKNDは勿論、
内田直之、KUNIYUKI, JEBSKIと強力なFORCEを持つミュージシャンが腕にヨリをかけて調理してくれ、

2010年12月24日に発売!
外的にはめでたいわけだが、
ここからは内情。
実は個人的には夫婦間は崩壊し、2010年から家族とは別居し始めていた。
この作品はある意味それを想定して作っていたとも言える。
同時に作り、リリースを2010年にした『MOVEMENTS』というアルバムは
https://crosspointproception.bandcamp.com/album/re-momentos-movements
精神と肉体も崩壊しつつある中仕上げたのだが、このTamは自分にとっては
クリスマスに子供たちに送るプレゼントとしても重要な任務で、
それは今回関わってくれたメンバー達の気持ちも後押ししてくれ、
どうにか仕上げられたと思う。
2025年の今、この時期の自分の行動力は異常としか言いようがない笑
まるで、まさに取り憑かれてるかのように。。
そう、だからこそ、この作品には大きな魅力があり、
昔からの仲間である鈴木シンヤ君から、この作品のリリースパーティーをしようと提案された。
それにはやはりあの男を呼ばなければ!
感動を与えてくれたあの男
アールブルックスを。
ということで、以前から言われてたことだが、
国際交流基金や様々な助成金的なものを出せる機関にも独りで当たって行った。
そこで見えてきたのは日本のカルチャーを海外に輸出するのには助成金は出せるが、逆はほぼ無理で、
その条件も様々な形で制約があることを知った。
失意、というほどではないが、
やはり自分の力だけでやり切るしかないな、と覚悟を決め、
逆にスティールパン業界とアポイントを取り、協力を仰いだ。
そしてリリースした12月24日の約1週間後にはアメリカのLAに息子達と映像の仲間、浅野と飛んでいた。
ホピの居留地に向かう為に。
詳しくは
そして1月に帰国して、この件を仲間達と取り決め、2月の頭には今度はセネガルに向け、
イスタンブールに飛んでいた。
詳しくは
そして帰国してすぐにあの3.11が。
ご存じの通り、日本全土を世界全土を衝撃と共に揺らした。
独り、東京に居た自分は葛藤し、すぐに21か22歳の時に観た映画『ホピの予言』を思い出し、
北山耕平氏に電話し、その上映をすることを管理人である辰巳さんから任されることになる。
そんな中、アールブルックスも家族から放射能まみれになった日本に来ることを反対されていたらしい。
その判断はその当時、近年話題になったコロナ用?のワクチンを打つか、打たないか、の話題のように賛否両論となった。
東京や東北に住んでいた何百人?何千人?もが他県、もしくは他国に避難していたからだ。
フランス政府などは、在日のフランス人のすべてに航空券を発行し、避難させていたくらいだ。
京都に住むSOFTのメンバー達も大いに揺れていた。
それぞれの人生、自分が決めることはできないわけだが、
それでも取り憑かれていた笑自分は、そんなことを恐れることもなく、
遂行するのみ、という感じだったと思う苦笑。
それに呼応したのか、アールブルックスも来日を決意してくれたのもあり、
ほとんどのメンバーは参加してくれた。
3月末に関西空港からツアーはスタートし、
まずはSOFTとの顔合わせ、兼リハーサルを、今年亡くなってしまった高橋さんがやっていた
バタラムという場所でやらせてもらった。

3.11という暗雲は全ての人にまとわりついていたと思う。

だからこそ、その悶々とした感情を『音』が癒し、鼓舞してくれていたのは間違いない。

京都の民族楽器店コイズミさんで開催されたワークショップ



神戸でのワークショップ

2011年4月1日京都METRO
Special Live : Soft meets Earl Brooks
(Steel Pan, from トリニダード・トバゴ)
Live : Aki-ra Sunrise
DJ : JUZU a.k.a. MOOCHY(NXS, CROSSPOINT)
/ YA△MA(FLOWER OF LIFE)
/ ナカムライタル(output) / SHINYA(NNNF, JAPONICA)
VJ : HASIM(output)
FOOD:食堂ルインズ





2011年4月3日青山CAY
LIVE:
SOFT meets PAN feat. Earl Brooks アール・ブルックス from トリニダード!
The Tchiky’s
語り部: UA
DJ: JUZU a.k.a. MOOCHY
Shhhhh, ケペル木村, 大石始
原画展示;内田松里
VJ: Meg ( overheads ) 瓢箪ランプ: Chancom FOOD: Paradise Alley DECO: Plasma
この日参加するはずだったUAと内田まつりは熊本に避難していたので参加できなかった。
やむを得ない、とは思うが、それでも
この原因が地震や津波だけでなく、
原発が爆発したこと(この時はまだ政府は隠蔽していた)で
放射能が関東まで撒き散らされていたことで僕らを分断していたということに憤りを持っていた。
ちょうど自衛隊に属している仲間が除染やら、家畜の駆除に向かって行ったのもあり、
逃げる、と対極にあるもの達に対する感情も爆発しそうになっていた。
そう、この頃の自分は完全に殺気立っていたと思う笑。
その鬼教官的なヴァイブスにも怯むことなく笑、
みんないい演奏、表現をしてくれた。



無事、ライブが終わり、
2011年4月4日(火)
原宿VACANTでのワークショップも盛況で、
関東のその頃の心の痛みを間違いなくパンの音が癒してくれたのは間違いない。






2011年4月5日は
レゲエセレクターであるHEMOさんのお店CACTUSで、ブルックスの提案から震災のチャリティーライブも行われた。
Earl Brooks (from Trinidad&Tobago
原田芳宏 (Panorama Steel Orchestra) ,Tony Guppy& ….
DJ : Macka-Chin(Nitro Microphone Underground)
Hemo
JUZU a.k.a. MOOCHY (NXS/CROSSPOINT)
いろいろあったが笑
ともかく無事ブルックス氏を成田から送り出し、ひとまず任務終了。
この後自分は例のホピの予言の上映など、より社会活動にシフトしていく。
そんな中、また青山CAYでDJ KRUSHなどとチャリティーイベントがあり、
自分もDJとして参加していたのだが、エンジニアの内田君からDJ中に着信があり、
かけ直してみると、
『タイヘイが死んじゃったんだよ』
と。。
『え?』
そのUAと内田君のカミさんである内田まつり、こと、まっちゃんは熊本に避難していたらしいのだが、
そこであった祭りの最中、車に轢かれて死んでしまったという。
自分も何度も内田邸でミックス作業をし、寝泊まりし、
一緒にご飯を食べて、遊んだタイヘイが。
涙が止まらなかった。
人によっては、それはただの親の管理ミス、だと言うかもしれない。
でも自分にはその家族を分断させてしまった原発産業や核産業、軍需産業、政府、それらを隠蔽し、
プロパガンダを煽るメディアすべてに怒りを感じた。
その怒りが六カ所村、核再処理施設まで独りバイクで向かわせた燃料になったのは間違いない。
これ以上の犠牲者は御免だと。
その後自分は反原発ステッカーを原発PRセンターというなんとも滑稽な施設に貼った、
それは侵入罪だ、という横暴な司法と行政と民間企業である『原燃』の策略で
3週間独房に入れられることになる。
そこでの体験もいずれ述べることもあるかもしれないが、
ともかくこのTAMという作品は、そのタイヘイをモデルに作った作品なのは間違いなく、
なんとも悲しい物語になったしまったのだ。。
タイヘイの葬式にもバイクで独りで行った。
初めて子供の死顔を見た。
綺麗な顔だった。
とにかく居た堪れなかった。
自分の子供が死んだら、、
今もパレスチナでは平気な顔をして子供を殺している。
その死顔を見る親達の涙、叫び、
それはあの時をいつも思い出す。
子供の死顔なんて誰が見たいか。
友達の子供ですらこんなに悲しいのに。
だからこの作品は自分にとっては結果、まるで感情を封印するように
そっとするものになってしまった。
関わった関係者はこの事実を知っているし、
UAともそのあと九州で会って、話した。
暗雲はまだ消えなかった。
しかし、その数年後、
内田君と現場が一緒になり、ニコニコ顔で携帯の中にある写真を見せてくれた。
『まっちゃんと子供をまた作ったんだ、そうしたら、、』
見せてくれた赤ん坊はタイヘイにそっくりの男の子だった。
内田君の表情を見て自分も救われたし、
神はやはりいるんだな、と確信を深めた。
この件で、暗雲は過ぎ去り、氷は溶け始めた。
CD+BOOKの発売当初から旧知のChee Shimizu氏ことチー君から、
この作品は素晴らしいからフルアルバムでヴァイナルにすべきだと言われていたのだが、
先述した通り、暗雲が、自分をそうさせてくれなかった。
しかし、この新たな子供の誕生を機に、Tuff Vinyl神尾氏の協力のもと
2021年12月24日に満を辞してヴァイナルでのフルアルバムが発売された。
最初のリリースから11年経っていた。




そしてこれを機にまっちゃん、こと内田まつりとも連絡を取り、
これを動画にしてヴァイナルリリースに合わせて公開しようと話し合った。
まっちゃんもそれ以来、旧友であるUAと疎遠になっていたらしいが、
この件で電話で話し、家にも泊まりにきて夜通し、語り合い、この文章をUAがリーディングすることで参加することになった。
そう、あの2011年の4月の青山CAYでUAにやってもらおうとしたことを。

Tam ~Message to The Sun~ タム ~お日様への伝言~ UAナレーション
そしてコロナになり、今度はトリニダードのヨウイチさんから連絡が来て、
アールブルックスが体調悪くなり
(コロナで仕事がなくなり、演奏する機会がなくなった途端なくなった老齢ミュージシャンは多い)
やばいから、何かやろうと相談が来た。
それが3年前。
先日リリースしたこの作品はヨウイチさんが録音した音源から仲間達と作った。
https://crosspointproception.bandcamp.com/album/look-up-walk
少しでも、あの音で僕らの傷ついた心を癒してくれたブルックス氏が元気になってくれたら。
上を向いて歩こう
この曲がそんなにいい曲で、世界中の音楽好きに愛されていると知った。
改めて、この作品を聴いてもらい、母親文化村というグループでもラップしてる奄美出身の両親を持つ、
群馬育ち、三軒茶屋在住のYUKKO!に声を入れてもらったものも追加した。
まだまだ
旅は続くのだ